Masuk「…………」
貴晴と隆亮は視線を交わした。「あ、あの……」
大姫が困ったような声で言い掛けてから大の男が六人も必要になる用……?
大荷物を運ぶのでもない限り考えづらいし、どちらにしろそういうのは随身ではなくて使用人にさせるものだ。
となると自分で人払いをしたのかもしれない。
例えば男との逢瀬とかで……。
男と二人きりになりたくて人払いをしたのなら随身達が揃っていなくてもおかしくはないが……。
貴晴はさり気なく身体の向きを変えて牛車の前の御簾に視線を走らせた。
男物の衣裳の裾は出ていない。貴晴が牛車の方に目を向けた時、辺りに盗賊以外の男はいなかったから一人で飛び降りて逃げたのでもないだろう。
となると男が裾を中に引き込んで、はみ出さないように抱え込んでいるのでもない限り乗っていないという事だ。「そういうことなら……お気を付けて」
としか言いようがない。貴晴がそう声を掛けると、 「ありがとうございました」 という大姫の声を残して牛車は向きを変えた。寺の方に戻っていく。管大納言の邸は反対方向だ。
なんでわざわざ寺に戻るんだ?
それにしても……。
前に牛車から降りた時は殺されそうになったから今回は中で大人しくていていたのに……。
牛車には嫌な思い出しか……。
そう思い掛けてさっき助けてくれた人のことを思い出した。
まさか誰かと歌のやりとりが出来るとは思わなかった。歌のやりとりなんて物語の中でしかあり得ないと思ってたのに……。
お互い姿が見えないのに歌だけで思いを伝え合うなんて……。そう思うと胸がときめいた。
もっとも、これで終わりなのだが――。下の句を詠んだ時もさっきも、お互いどこの誰か知らないのだ。
もし次の機会があったとしてもそれがさっきの人かどうかは知りようがない。 まさか合い言葉みたいに今朝の歌の下の句と上の句を言い合って確かめるわけにもいかない。 出来なくはないがあまり様にならない。きっと一度だけの思い出にしておいた方がいいのだろう。
思い出はいつまでも綺麗なままだ。 貴晴は隆亮と共に牛車に乗った。幸か不幸か大納言の大姫で間違いないと分かってしまった。
となると弾正台になって従三位の位を貰うしかない。 そのためには群盗――〝鬼〟を捕まえる必要がある。 ただ――。「今の、どう思った?」
貴晴は隆亮に訊ねた。 「え?」 「随身も牛飼童もいなくて姫が一人で牛車に乗っているなんておかしいだろ」 貴晴が言った。「そうだな。侍女もいなかったし……」
「中を見たのか!?」 貴晴が驚いて声を上げると、 「御簾から見えてる裾は一人分だっただろ」 隆亮が答えた。そういうところはよく気が付くな……。
さすがに妻が(二人も)いるだけある。
貴晴は感心して隆亮を見た。「男は乗ってなかったから
姫に
「どうやって人払いをしたのかってことになるな」
「大納言が呼んでると言って随身を
二人は揃って黙り込んだ。
「群盗のことは何か聞いてるか? 鬼の事は?」
貴晴は気持ちを切り替えて隆亮に訊ねた。「今のところは特にないなぁ。聞いておくよ」
「頼んだ」 貴晴が言った。 翌日―― はだれ雪 花散る里の 庭の
「これで三首目」
織子は地面に書いた歌を紙に書きとめた。 義母から次の歌会までに五首詠めと言われている。「歌の勝ち負けを競うのの何が楽しいのかさっぱり分からない……」
織子は溜息をこの前のあの方との和歌のやりとり……。
「あれは楽しかったな……」
あんなに胸が高鳴ったのは初めてだ。「恋人と歌をやりとりするのってああいう感じなのかな?」
だとしたら、いつか織子に恋人が出来たとき、その人は歌を詠むのが好きな人が良いと思った。貰った歌を詠む度にどきどきして、贈る歌を詠む度にわくわくする、そんなやりとりが出来たら、きっと文が待ち遠しくなるだろう。
「歌が上手い方から文を頂いた時のための練習だと思えばいいのよね」
そう思えば匡のために仕方なく作らされている歌を詠むのも楽しく思える――と言うか、そうでも思わないとやってられないというべきか。 数日後―― 貴晴は内裏の庭で
「よくやった」
祖父が言った。 部屋の中の
官位によって内裏内で入れる場所が決まっている。
六位以下だと建物には入れないので、建物の中の御簾の向こうにいる帝とは庭で話をしなければならないのだ。この前、管大納言の牛車を盗もうとした者を追い掛けていった由太から報告を受けた貴晴はそれを祖父に伝えた。
それを祖父が報告したのだ。 どうやら相手は帝だったらしい。建物内に入れないだけではなく、直接話すことも出来ないので祖父が間に入って話を貴晴に伝えていた。
「報告にあったのは〝鬼〟ではなかったが、それでも賊を見付けた功績により弾正台に補し、従五位下とする」
その言葉に貴晴は、ちらっと視線を上げて祖父を見た。「いきなり従三位では不審に思われるであろうし、貴族達の反発を招く」
祖父はそう言ってから、 「貴族の協力を得られなければ上手くいくものもいかなくなるからな」 と補足した。つまり徐々に引き上げるという事か……。
この点に関しては信用していいはずだ。
そもそも単なる調査なら弾正台という肩書きは必要ない。 弾正台という名誉職を持ち出してきたのは貴晴にそれなりの官位を与えるためだろう。 その理由が後ろめたさからなのか、他に思惑があるからなのかは分からないが。「それから弾正台のことは内密に」
「え?」 貴晴は思わず顔を上げた。「弾正台が補されたと知ったら証拠を隠滅されるかもしれぬ」
祖父が言った。それはそうだが……。
そうなると……。貴晴が祖父に物問いたげな視線を送ると、
「何かあるなら申してみよ」 帝が直接貴晴に話し掛けてきた。 「「かまわぬ」
帝の言葉に祖父は引き下がった。 「私が弾正台だという事を知らないと弾劾も出来ないのではありませぬか?」 「捕らえるのは検非違使だ」 祖父が答える。「それは相手に知られずに尻尾を掴めたらの話でしょう。万が一探っている時にバレたらどうするのです」
「その時は弾正台と名乗って良い。色を許す。証を見せろと言われたらそれを見せよ」 帝がそう言った時、 「「お邪魔して申し訳ございません」
女房がそう言うと、 「いや、もうすんだ」 帝がそう答え、 「後は頼む」 と祖父に告げた。話は終わったと言うことらしい。
今日のところは。「従五位下ということは人に言っていいんですね」
貴晴は祖父に訊ねた。 官職どころか官位まで人に言えないとなると弾正台になることを引き受けた意味がなくなる。「かまわぬ」
祖父は頷いた。それから、 「色を許されたのは証として必要だからだ。持っていなければ意味がないだろう。後で邸に届けさせる」 と付け加えた。 着用出来る色と文様は官位によって決まっていて本来なら着られない色(や文様など)を
何位までの色を許されたのかは分からないが、祖父は知っているはずだ。
五位の色は許しをもらうまでもなく着られるのだから恐らく四位か三位の色だろう。 祖父は正三位だから三位や四位が着られる色の衣裳は持っている。 それを譲ってくれるということだろう。とはいえ、色を許されてるくらいでどうにかなるとは思えないが……。
敬称略 順不同鏡山昭典『私撰 枕ことば辞典』阿部萬蔵・阿部猛『改訂版 枕詞辞典』八條忠基『詳解 有識装束の世界』倉本一宏『平安京の下級官人』和田英松『官職要解』榎村寛之『斎宮-伊勢斎王たちの生きた古代史』承香院『あたらしい平安文化の教科書』繁田信一『平安朝の事件簿 王朝びとの殺人・強盗・汚職』こさかべ陽子『よく分かる平安時代』『平安時代の絵事典』『光る君へ』ついに最終回…時代考証が語る平安貴族の「政治」と「恋愛」<上>https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20241209-OYT8T50192/『光る君へ』ついに最終回…時代考証が語る平安貴族の「政治」と「恋愛」<下>https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20241209-OYT8T50194/望月光『望月光の古文教室 古典文法』荻野文子『マドンナ古文 パーフェクト版』『落窪物語』『平中物語』『御堂関白記』『小右記』『堤中納言物語』『日本書紀』『古事記』『古今和歌集』『山槐記』『源三位頼政集』小松英雄『伊勢物語の表現を掘り起こす』望月光『望月光の古文教室 古文読解編』荻野文子『マドンナ古文常識217』荻野文子『マドンナ古文和歌の修辞法』岡本梨奈『岡本梨奈の1冊読むだけで古文の読み方&解き方が面白いほど身につく本』木下武司/亀田龍吉『万葉集 植物さんぽ図鑑』成清弘和『律令家族法の研究』『令義解』『律令制と古代社会』河添房江『紫式部と王朝文化のモノを読み解く 唐物と源氏物語』八條忠基『有職故実から学ぶ年中行事百科』梶川敏夫『ビジュアル再現 平安京 地中に息づく都の栄華』梶川敏夫『新版よみがえる古代京都の風景
随身が猫を捕まえ、糸毛車が動き出そうとしたのを見た貴晴は思わず牛車の外に飛び出した。「貴晴!?」 隆亮が驚いたような声を上げる。 貴晴はそれには構わず糸毛車に駆け寄ろうとして足を止めた。 隆亮が出世できなくなったら困るか……妻達が。 貴晴は牛車の中の隆亮を振り返った。「お前はそこにいろ!」 と言ってから、「そこの車、止まれ!」 と青糸毛の牛車を止めた。「誰だ、お前は! この車に乗ってるのがどなただと……」 郎党が刀の柄に手を掛けて誰何する。「私は弾正台だ!」 貴晴がそう言うと、青糸毛の前簾が僅かに動いた。 乗っている者が外を覗いたのだろう。「そいつの狩衣は黄丹よ! 春宮でなければ着られない色を着るとは不届きな! やってしまいなさい!」 青糸毛の中から女性の声がした。 郎党達が一斉に斬り掛かってくる。 貴晴は抜刀すると太刀を横に払った。 郎党が叫び声を上げて転がる。 続いて背後で絶叫が上がった。 振り返ると隆亮が郎党を斬り捨てたところだった。「おい! 出世できなくなるぞ!」 貴晴が隆亮に声を掛ける。「私はお前の手伝いを命じられてるんだから、これは仕事だ」 隆亮は嬉々としてそう言いながら別の郎党を斬り付ける。「これは仕事じゃ……」「お前、弾正台だって名乗っただろ」 隆亮が更に別の郎党を斬る。 失敗した……。 隆亮が側にいない時にするべきだった。 あの女御だと気付いて咄嗟に牛車を止めてしまったが……。 私が全ての責任を被れば隆亮はお咎めなしにしてもらえるだろうか……。「春宮になりたいのでしょうけど、そう
「女御の猫だとご存じだったのですか? それで、あの袋を……」 貴晴は織子に訊ねた。 「女御?……ああ、ではやはり、あの方は春宮様のお母様だったのですね」 「ご存じなかったのなら何故、言葉を濁しておられたのですか?」 単に暗くてよく分からなかったという事だったのか?「父が春宮冊立の邪魔をしていたとか、私が邪魔をするとか仰っていたので……」 つまり帝や春宮が関わっているようだから言いづらかっただけか……。 春宮冊立の邪魔を出来るような立場の人間となると身元はかなり絞られる。 二年前に一度襲撃されていて内親王だという事を人に知られたくないと思えば春宮や女御と関わりがあるというわけにはいかないだろう。 そういえば――。「都の近くまで戻ってきてから襲撃されたんですよね? 退下した斎王を狙う理由は……前の帝が春宮冊立の邪魔をしていたと思っていたから、その逆恨みだったということですか?」 「いえ、どなたかに春宮位を奪われるかもしれないと……それで帝が私の言う事を信じるとかなんとか……でも、私は今の帝とお話ししたことは……」 織子が首を傾げながら言った。 斎宮に旅立つ儀式をすっぽかしたのだから今上帝が織子に会ったことがあるとしても十二年以上前だ。 となると、帝は織子の言うことを信じているというより恐れていて、つつじの君が廃太子をしろと言ったらその通りにするかもしれないと思っていたのかもしれない。 そもそも、帝が織子を恐れているのは大赦させるために女御が毒を飲ませたせいなのだから自業自得なのだが――。「帝には他に親王様がいらっしゃらないのですから廃太子などあるわけないのに……」 織子は『帝には他にご存命のご兄弟はいらっしゃらないし……』と言いながら首を傾げている。 祖父が言っていたように、皇族しか皇后になれなかった時代は帝の意向がもっと尊重されていたから春宮選びにもその意思が反映された。 ただ、それも相当大昔の話だ。
それが二年前のことだった――。 それ以来、祖父とは口を利いていなかったから詳しいことは知らないが、おそらく今の春宮を押している勢力――多分、春宮の母親の女御やその父親――が、帝が隠し子を春宮に立てようとしているようだという噂と聞き付けて貴晴の命を狙ったのだ。 迷惑な……。 だから皇族も貴族も嫌いなのだ。 皆、他人の気持ちを考えずに勝手なことばかり……。 弾正台に補すという話があった時、すぐに〝弾正宮〟にしてやるという意味だと察しが付いた。 弾正台というのは親王がなる名誉職のようなものだからだ。 だが親王宣下――親王の身分を与えること――の有無はともかく、貴族の腐敗を正す気があるというのならなってもいいかと思ったのだ。 大納言の姫と釣り合う身分も欲しかったし……。 そういえば、内大臣が中の姫の恋人のことを相談した女御は春宮の母親だと言っていたな……。 貴晴を狙ったのと、内大臣の中の姫の恋人を殺したのが同じ女御だとしたらやたら殺意が高い女性だという事になる。「きゃーーーーー!」 不意に織子が悲鳴を上げた。「つつじの君!」 貴晴は慌てて立ち上がると、 「失礼します!」 御簾を払った。「あ、た、多田様、違います」 つつじの君が慌てたように顔を隠す。 「え?」 「そ、そちらに……」 つつじの君が震える指で貴晴の後ろを指す。 振り返ると背後に蛇がいた。 どうやら庭から這い上がってきたらしい。 こういう事は偶にあるのだ。 毒蛇ではない。 貴晴が蛇を掴んだ時、郎党達が駆け付けてきた。 蛇を差し出された郎党は顔を引き攣らせながらも受け取った。「あ、あの、殺さないで下さいね」 つつじの君が、蛇を持って出ていく郎党に声を掛ける。〝蛇は神様の使いなので轢き殺すのは良くないと……〟
「おい、卿が訪ねてこられたぞ」 つつじの君と御簾越しで向かい合っていた貴晴に隆亮が声を掛けた。「祖父上が?」 貴晴が怪訝な面持ちで言った。 ここは右大臣邸だ。 となると普通なら右大臣に会いにきたと思うところだが今は内裏が方塞りだから別邸に行っていてここにはいない。「お前に会いに来たのか?」 貴晴が訊ねると、「いや、それが……」 隆亮はつつじの君がいる御簾の方に視線を走らせた。 貴晴がそれ以上訊ねる前に祖父が入ってくる。「祖父上、ここには姫君が……」「その姫君にお目に掛かりたい。お顔を拝見出来ませぬか?」 祖父が御簾の方に目を向けて言った。「祖父上! 失礼でしょう。貴族の姫君の顔を見たいなど……」「貴族ではない」 祖父が貴晴の言葉を遮る。「祖父上! いくら祖父上でもつつじの君への無礼は……!」「た、多田様!」 織子が宥めるように声を掛ける。「その方は前の斎王……織子内親王様――そうではありませぬか?」 祖父が織子の方に顔を向けた。「さら……? 祖父上、つつじの君の名前は違います」 大納言の邸の前にいた女性が『しきこ』と言っていたはずだ。「いえ、織姫の『織』って書いて『さら』って読むんです」 織子の言葉に貴晴が振り返る。 更紗織の『さら』か……? 女性の名前は予想も付かない読み方をすることが多い。『明子』とかいて『あきらけいこ』とか『兄子(さきこ)』、『亀子(ふみこ)』などである。 それはともかく、内親王なら名前に『子』が付いていたのも納得がいく。『子』が付くのは皇族か帝の妃、もしくは官位がある貴族の女性なのだ。
〝うらめども うらみつくせぬ 葛の根の いや遠長に うらみ続きぬ〟 貴晴が内大臣家に着くと随身の一人に文を見せられた。 門の近くに落ちていたらしい。 貴晴と隆亮が顔を見合わせる。「……一体どんな恨みを買っているのか伺っても?」 貴晴が内大臣に訊ねた。「人聞きの悪いことを言うな。おそらく何かの逆恨み……」 内大臣が怒ったように答える。〝延ふ葛の 後に逢はむと 契りしも 風に散る葉の うらみるなりと〟「これも逆恨みですか? 『後に逢はむ(後で会おう)』と『契りしも(約束をして夜を供にしたのに)』――約束を守らなかったんでしょう」「女を捨てたのでは? 妻にすると約束しておきながら実際は一晩か二晩で通うのをやめた……」「違う!」 内大臣は貴晴と隆亮を遮った。そのまま黙り込む。 貴晴と隆亮は顔を見合わせた。「……では、我々はこれで」「待ってくれ!」「恨まれてないなら心配いらないでしょう。我々も暇ではないのです」 貴晴が答える。「……検非違使ではないのだな」 内大臣が再び確かめるように訊ねてきた。「違います」 貴晴が即答する。「……男だ」 内大臣が苦々しげに答える。「それを隠したかったんですか? 男同士なんて別に珍しくないでしょう」「私ではない。姫だ。中の姫に男が……」 中の姫というのは内大臣の次女のことである。 どこの姫も上から大姫、中の姫か二の姫、三の姫……と呼ばれるのだ。 管大納言の姫なら『管大納言の大姫』、『管大納言の中の姫』、『管大納言の三の姫』、内大臣の姫なら『白石内大臣の大姫』、『白石内大臣の中の姫』など
「本当に貴晴を弾正台にする気があるんですか?」 隆亮が『そんな難題を押し付けるなんて』と言いたげに訊ねた。 祖父は隆亮の質問には答えず、貴晴に顔を向けた。「黒幕がいると思っているのでしょう。親王か公卿――おそらく大臣のうちの誰か」 貴晴が祖父の無言の問いに答える。 内裏に住んでいない親王は母方の祖父母と暮らしていることが多いし、親王の祖父は大抵は大臣か元大臣だ。 大臣は広い邸に住んでいる上に別邸も持っている。 盗賊が家人に知られずに出入りすることも可能だし、検非違使に調べられる心配もない。「お前、意外と|賢《かしこ
邸を出た貴晴が歩いていると牛車がやってくるのが見えた。 車体が白っぽく見えるのは檳榔という植物を編んだ物で覆っているからで『檳榔毛の車』といって四位以上でなければ乗れない牛車である。 貴晴は足を止めると道を譲るために脇に避けた。 よくよく考えてみたら貴晴の乗ってきた牛車は邸の前だ。 牛車に乗って帰るとなると隆亮と同乗することになる。 当然さっきの話が出るだろう。 それが嫌なら歩いて帰るしかない。 まぁ、歩いて帰れない距離ではないが……。 そんな事を考えている間にも別の牛車が通り過ぎていく。 どうやらこの先にある寺で何かあるらしい
その日も貴晴は母から「早く妻を」とせっつかれていた。 祖父の邸に行けという話はうやむやになったらしい。 あれ以来、何も言われなくなった。「いいですか、早く妻を……」 母がくどくどと何やら言っているのを聞きながら貴晴は横目で庭を眺めていた。「み吉野の み山の上の 月影に 桜の白き 色やうつらむ」 突然母が歌を詠じた。 貴晴が思わず視線を戻すと母は、してやったりという笑みを浮かべた。「帝の行幸の時に管大納言の大姫が詠んだのだそうです。帝や春宮も感心していらしたとか」 母が言った。 なんだ、春宮狙いか……。 貴
「次はこれよ」 義母がそう言って文を織子の前に置く。 二年前、織子は母の妹に引き取られた。 織子は和歌が上手かったので一度義理の姉の匡の代わりに短歌を詠んだところ、その歌が評判になった。 それ以来、義母に言われて織子は匡の代詠――歌を代わりに詠んでいた。 男女が直接会うことが出来ないため、男性にモテる基準の一つは歌が上手いことである。 それで匡には男性から文が送られてくるようになった。 その返事に添える歌も織子が詠んでいる。「これはどういう方からですか? 叔父様はこの方のことをどうお思いなのですか?」 と義母に訊ねた。「そうね…